NOBODY DOES IT BETTER



 部屋の鍵は、かかっていなかった。
 中にいるのかと思ったが、最低限の荷物しかない1DKに知盛の姿はない。どこかに買い物にでも行っているのだろうか。

「また鍵かけるの忘れてるよ……」

 ため息をつきながら、望美は靴を脱いで部屋に上がった。
 元の世界では、彼には家や部屋に鍵をかけるという習慣がなかったのだから、しかたないか……。いや、単に面倒くさがって、かけなかっただけというのも知盛ならありうる。共同玄関はオートロックだから、望美のように合鍵を持っていないとマンションの中には入れないとはいえ、やっぱり不用心である。少なくとも、外出する時に鍵を持って出ることだけは忘れないでほしいけれど。
 知盛がこちらに来て2ヶ月あまり。日々の生活もようやくそれなりに落ち着いてはきたが、彼がこの世界に溶け込むには、まだまだ先は長そうだ……。
 だが、その望美の目に飛び込んできたもの。それはキッチンのテーブルの上に置かれた、いくつもの綺麗な箱や袋だった。殺風景なこの部屋にそぐわない垢抜けたパッケージの数々に望美は一瞬目をみはったが、今日がどういう日かを考えれば、それが何かは一目でわかる。
 全部チョコレートに違いない。

(知盛ってば!)

 いったいいつの間に……。
 もうちょっとよく見てみようかな、と手を伸ばしかけたところにドアが開いて知盛が戻ってきた。悪いことをしていたわけではないが、思わず望美は手を引っ込める。

「知盛!」
「ああ……来てたのか」

 生成りのセーターにジーンズ姿の知盛は、そんな望美の様子には気づいていないようだ。手にはコンビニの袋。
 この寒いのに知盛は靴下もはいていないが、いっこうに平気らしい。さすが鍛えられているなあと望美は変なところで感心する。知盛に言わせれば、冬のさなか、今の望美もそうだが、制服の短いスカートで足の半分をむき出しにしたままの少女たちも大したものだ、ということになるらしいが。
 椅子に腰を下ろした知盛は、袋から熱い缶ココアを出して望美の前に置いた。

「飲めよ」
「ありがとう」

 自分用には缶コーヒー。というところを見ると、学校帰りの望美が来るのを見越してわざわざ買いに行ったもののようだ。湯を沸かしてインスタントコーヒーやココアを溶かすより、近場のコンビニに買いに行く方がいいらしいというのはよくわからないが、それでも望美をもてなそうという心が見えるあたり、ずいぶんな進歩である。
 問題はコンビニの袋から、絶対にコンビニで買ったのではない超有名ショコラティエのロゴのついた小箱を取り出して、他のチョコレートの上にぽんと重ねたところだ。ココアを飲みながらそれを横目で見つつ、望美はとりあえず尋ねてみる。

「ねえ、知盛」

 何だ、というように知盛がこちらを見る。

「これ……どうしたの」

 望美が指差した複数のチョコを、知盛は興味なさそうに一瞥した。

「女たちから渡された」

 あまりにもシンプルな答に望美はがくりとし、しかし気を取り直して質問を続ける。

「それはだいたい想像つくよ。けど、誰から?」

 詮索していると思われるのもいやなので、できるだけ穏便に尋ねた。

「気になるのか?」
「ち、違うよ。でも、やっぱり……こんなふうに、置いてあれば、それはね」
「ほしければ、持っていけ」
「えっ」
「今日は『ばれんたいんでー』とやら……なのだろう? 好きな男や感謝している男に、チョコレートをやる日だと聞いた」
「へえ。よく知ってるね」
「有川からな。……が、俺は彼女たちから好かれる覚えも、感謝される覚えもない。甘いものは好きじゃないしな」
「だったら、もらわなければいいじゃない!」
「ことわるのも面倒だ……」

 いかにもだるそうな知盛に望美は脱力した。これではチョコレートをあげた女性も、あげがいがないだろう。もっとも自分も、これから知盛にチョコを渡そうとしている人間のひとりなのだが。

「ね、いったい誰にもらったの?」

 聞くと、ほとんど知盛は名前を知らない女性たちばかりのようだ。かろうじて名前がわかっているのは、よく酒を飲みに行く店(望美はそんなお店の存在は初めて聞いた)のマダムぐらい、これは「バレンタインデー当日はお店には来てくれないだろうから、先に渡しておくわネ」と夕べもらったという。
 あとは顔は何とかわかるが、名前は知らないケース。たとえば知盛が時々顔を出している道場に通っている生徒の母親(複数)やら、、角の幼稚園の先生やらその他。これは今日、昼過ぎに知盛が道場に行った際にもらって帰ってきた。それから、さっき買い物に行ったコンビニの店員。あとは道で呼び止められてチョコを押し付けるように渡されたあと、逃げるように去っていった女性もいたという。

「まさか毒なんて入ってないだろうな……」
「そんなもの手渡すわけないでしょ!」

 望美は叫ぶように言った。思うに彼女たちは知盛の見た目、つまりさらさらした銀色の髪とか神秘的な紫色の瞳とか、どこから見ても整っている容貌だとか、均整のとれた長身だとか、昼間から無駄ににじみ出ている色気や、そして聞きようによっては甘く響く低音の声などに惹かれたのだろう。だが、知盛のこれまでの人生及び性向そしてこの性格を知って、なお彼を許容していられる人間が何人いることだろうか……。
 彼女たちはある意味幸せなのかもしれない。知盛の外見に夢を見られて。
 もちろんそんな知盛であっても、望美は知盛のことを誰よりも大切に思っている。知盛をこの世界に連れてきた責任も、まったくもって十分すぎるほど感じてもいる……。

「あのね、知盛。チョコレートをもらったら、お返しをしなきゃいけないんだよ」
「お返し?」

 将臣はホワイトデーのことまでは説明しなかったらしい。

「そう。3月14日に、クッキーとかキャンデーをあげるの」
「……面倒、だな……」

 かったるそうに息をつく。

「俺がくれ、と頼んだわけじゃないぞ……」
「でも、そういうものなの。もらいっぱなしはよくないよ」
「相手が誰かも……わからないしな」
「顔を知ってる人はいいじゃない。それに、チョコにメッセージカード……えーとね、添え書きがついてるかも知れないでしょ。あとはまあ、きっと何とかなるよ。とにかく、いただいたものにはお返しをしなくちゃねっ」

 自分の彼氏にチョコをあげた女性たちに対して、なんでこんなに一生懸命にならなくちゃならないのかと思いつつ、それでも望美は精一杯説明する。
 知盛が、ふんと鼻を鳴らしたのは、とりあえず義理はきちんと返すつもりになったようだ。望美はほっとした。
 だが彼は一転、彼女をのぞきこむように見つめてきた。

「なあ、望美」
「な、何よ」
「おまえは……寄越さないのか」

 気だるい声、かすかにすがめられた紫水晶の目の奥にちらちらと踊る楽しげな光。
 望美が学校帰りにここにやってきたのは、まさに知盛にチョコレートを渡すためなのだが、今さら素直に、はいどうぞと渡す気にはとてもなれない。望美はことさら無関心をよそおって答えた。

「あれ、知盛、ほしかったんだ?」

 知盛は喉の奥で笑った。

「……というより、おまえは俺に渡したくはないのか? 今日は惚れた男にチョコレートをやる日、なんだろう?」

 いかにも望美が知盛に渡すのがあたりまえと言わんばかりのその言い方、口角をかすかに上げる知盛にますます反発心が湧き上がる。しかしせっかく持ってきたチョコレートを渡さないというのももったいない。彼女はせいぜい恩着せがましく聞こえるように言った。

「ふーんだ。ええ、チョコレート、持ってきたよ。持ってきました。しかも私の手作りだもんね! ありがたく思ってよ」

 言いながら、かばんの中からシンプルだが美しく包装された小さな箱を出して知盛に渡す。
 実は望美は料理はあまり得意ではない。だがチョコレートについては、何とか人に食べさせられるレベルに達したものが作れたと思う。去年も将臣と譲には手作りのものを渡していて、とりあえずの及第点をもらったことではあるし……。それに今年は、二週間前から知盛に秘密で、練習を重ねてきたのである。

「同じく手作りのものを、将臣くんと譲くんには学校で渡してきたからね!」
「有川と譲……?」

 とたんに知盛の眉がしかめられる。それを小気味よいものに感じながら、望美は続けた。

「そう。今日は感謝の日だもんね。将臣くんと譲くんは、はずせないもん。本当は知盛には私に感謝してほしいくらいなんだけど?」

 しかしその望美の言葉が聞こえているのか聞こえていないのか、知盛が望美に尋ねた。

「……開けていいか」
「え、い、いいよ」

 知盛がなかなかていねいな手つきで包装を開けるのを、望美は胸をどきどきさせながら見やった。好き嫌いの多い知盛に「いらない」と言われたらどうしようと、実はひそかに怖れていたのだ。
 望美が知盛のために作ったのは、洋酒入りのトリュフ。さっき知盛には、将臣と譲にも手作りのものを渡したと言ったが、ふたりに作ったのとは味も違うし、手間も違う。ふたりのためのチョコレートに手を抜いたというのではまったくないが、甘いものが嫌いな知盛の口に合うと思われるものを工夫するだけで、ずいぶん時間がかかってしまったのだ。
 知盛に渡した箱に入っているのは、たった4粒。しかしそこには望美の必死の思いがこめられているし、その後ろには実は無数の失敗作があるのだった。
 知盛がトリュフを無造作に口に入れるのを、望美は息をひそめて見守った。

「……うまいじゃないか」
「そう、そう? ねえ、ほんとにおいしい? おいしい? よかった! 作るの、がんばったんだよ!」
「ああ。うまいぞ。これなら、俺も……食えるな」

 もうひとつを口に放り込んだ知盛がテーブルを回り、全身で喜びを表して今にも踊り出しそうな望美の傍らに立つ。

「そんなに心配だったなら、おまえも味見してみるか?」
「えっ?」

 言うなり顔を上向かされ、口づけられた。重ねられた唇、絡まる舌から甘いチョコレートの味と洋酒の香りが口内に広がっていく。知盛の腕が望美の身体を立ち上がせ、キスは続いた。
 唇が離れた時、望美は息を荒くさせていた。それがキスのせいなのか、馴れない洋酒の味のせいなのか、よくわからない。味見をしていた時も、こんなに強烈にお酒の味を感じることはなかった。

「うまい……だろう?」
「……うん」
「有川たちにも同じもの?」
「ううん。知盛のは……特別だよ」

 知盛の胸に寄りかかった望美が、反抗する気力もチョコレートと一緒に溶けたように素直に答えると、そうだろうな、と彼はつぶやいた。
 テーブルの上に手を伸ばしてもうひとつを口に含むと、知盛は望美にまた口づけた。開かれた口の間から舌で押し込まれるまろやかなトリュフ。それを望美が舌で転がすと、ふたたび相手の舌先が口内をまさぐってくる。チョコレートがふたりの口内を往復し、熱と唾液で見る間に溶けて形を失っていった。
 知盛は望美の唇の端についたチョコレートを舌先で舐め取り、そして最後の一粒を望美の唇の間に挟ませた。唇をかすめるようにささやく。

「今度はおまえが……食べさせてくれよ」

 キスに酔ったのかアルコールのせいなのか、自分でもわからないと思いながら、恥ずかしさも忘れたように望美は知盛の頭を引き寄せ、唇から唇にチョコレートを押し入れた。チョコレートを介して深まっていく甘い口づけに彼女はしばらくうっとり浸っていたが、気がつくと制服のブレザーの前ボタンがはずされ、長い指が中に侵入しはじめている。望美はあわてて知盛の手を押しやった。

「だ、ダメだってば! 今日は夕ご飯までに家に帰らないと……」
「平気だ。帰してやるさ……。うまいチョコレートをくれたお返しをしてやろう」
「遠慮しますっ。お返しはホワイトデーでいいから……っ」
「……それまで、待てない。おまえも、その気なんだろう?」

 ちがう、ちがーう!と思いつつ、知盛のキスと肌の上を這い回る指先に、すでにまともに思考するのが難しくなってきている望美は、もう恋人のなすがままにされるしかない。
 
「こんなにうまい菓子を食わせてもらったのは……初めてだ。『ばれんたいんでー』とは……いい日だな」

 知盛の満足気なささやきが、なめらかな肩口をくすぐる。甘く酔わせるようなチョコレートの香りがあたりに漂った。

「まあ、どんな菓子の美味さも……おまえにはかなわないだろうがな……」

 低く響く笑い声。あきらめたような吐息をひとつついて銀色の髪に手を差し入れ、望美は目を閉じて微笑みを浮かべた。

 甘く蕩けるチョコレートよりも何よりも、あなたより素敵に愛してくれる人はいないものね……?






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